Akerlof (2020): Sins of Ommision and the Practice of Economics

今日は掲題の論文について話したいと思います。 論文はこちらから。

概要:

本文はAkerlofさんによる経済学の業界分析。

彼によると、経済学者は「ハード」な研究主題及び研究方法を好み、「ソフト」を嫌う傾向にあるとのこと。 「ハード」対「ソフト」とは簡単にいうと数量分析対質的分析のことであるが、数量分析の中でも「ハード」と「ソフト」の階級がある。 (「ハード」と「ソフト」は分離量ではなく、継続的だと思われる。)因果関係がきれいに成立する研究はより「ハード」であり、 結論が相互関係成立のみであれば「ソフト」よりということになる。つまり、実証研究でも識別問題(identification)に焦点を当てたものはより「ハード」。 更には、複雑な数学手法を使い、基礎概念を説明する経済理論はより一層「ハード」と考える。

彼によると経済学業界でこういった嗜好が観察されるのには三つの理由がある。

  • 理由1:経済学業界の科学界における位置を守るという使命感
  • 理由2:論文ジャーナルの評価システム
  • 理由3:業界への自己選別

理由1は、「自分たちは社会科学の中で一番」というプライドを守る傾向が、経済学者を計量的で理論的な研究に惹きつけるという意味。 理由2はもっと実務的な理由。論文ジャーナルの編集者や批評者たちの中で出版合意を得るのに一番簡単な基準は批評対象の論文が「ハード」か「ソフト」かである。 そのため、論文の重要性で出版が決まるのではなく、精密性で決まってしまう。 理由3は博士課程への選別。仕組みは理由2と類似。

このような「ハード」に対する傾向がもたらす結果は大きく三つ。

  • 結果1:新しい研究アイディアに対する偏見
  • 結果2:過剰な専門化
  • 結果3:「トップ5の呪い」

結果3は終身在職権や昇進するのに大学はトップ5ジャーナルでの出版のより重視されていること。

意見・感想:

経済学業界における傾向を、経済学者らしく動機(incentive)注目して分析していて分かりやすく書かれていました。 さらには、面白い統計も載っているでおすすめです。 (例:”For the approximately half of respondents who had initially received “permanent academic positions” (i.e. tenure-trackjobs), median top-50-economics-journals publication was 1; the mean of such publications was 2.0.” 涙。)

いろいろ盛りだくさんな論文ですが、面白いなと思ったことを選んで話したいと思います。

面白いと思ったことその1:どんな研究結果が社会的に最適な「重要性」が高いものなのか定義及び提案していない。

著者の意図を勝手に一言でまとめると、「経済学業界は精密性よりも研究課題の重要性に焦点を置くべき」となる。 経済学者が「ハード」さと「重要性」が社会的能率的にバランスが取れていないため、上述の問題が起こっているという論理。

ここで疑問に思ったのが、著者がほぼ当たり前として扱っている「ハード」さと「重要性」の二律背反の関係の必然性。

著者はこの関係を以下の図で表している。

「ハード」さと「重要性」の二律背反

多分彼の定義する「ハード」でいうと、例えば、最低賃金が雇用にもたらす影響に関する実証研究(例:Card and Krueger (1993)は重要性が高いけど、ハードさにかける為、グラフのB点寄りに位置する。

一方で、データに頼らずモデルから結論を見出す研究はハードだけど、重要性にかける。(例:Shapiro and Stiglitz (1984)

この論理が少し腹落ちしづらい一つとして、一体なにが重要なのが本文中に話されていないことだと思う。 社会にとって重要なのか、経済業界にとって重要なのか、または経済学者個人にとって重要なのか曖昧だと二律背反の関係がちょっと見えづらい気がする。

面白いと思ったことその2:経済学業界の傾向に対する経済学業界外からの批判と概念的にマッチしている。

面白いなと思うのは、著者の主なメッセージは経済学外の研究者からは昔からよく言われていたことと類似するところ。

その人たちからすると、今更感否めないかもしれない。。。それでも、個人的にはこういう意見が有名な経済学者から出てくるのはとても大事なことだと思う。

近年でこそ、Esther Duflo, Abdjit Banerjee, Michael Kremerがノーベル賞受賞したりと、実証研究の正当性が確立されてきたり、経済理論の枠外のトピックを扱う研究課題も受け入れられるようになってきたが、人によっては、例えば、性差別などのトピックは経済研究にふさわしくないと思う人もいる。

私は経済学は社会科学であり、社会及び経済現象に関わることであれば、経済学もしっかり研究するべきとおもうので、こういう論文はとてもありがたいと思う。

面白いと思ったことその3:「お話」の重要性を推しているところ。

すごく丁寧な経済学業界分析の後、著者が行き着くのは「お話」の重要性。

「お話」という言葉は正直、とても分かりづらいが、著者があげる事例をみるとなんとなく何が言いたいのかわかる。

彼は、一例として、米国では温暖化を嘘、または陰謀説だと信じてる人が多い事を上げている。 (因みに、地球は平らだと思ってる人も驚くほど多い。)

多分、著者が言いたいのは「お話(story)」というより「物の受け入れ方(perception)」に近い気がする。 事実と認識の差が著者の意図する点だとすれば、とても時を得たアドバイスだと思う。

研究結果事実と確定された事でも人々の認識が追いつかなければ、私達経済学者が観察する経済現象は、事実に基づいて人々が行動した結果ではなく、彼らの認識に基づいたものである。よって、「お話」を見逃すと誤診につながるということなのかなと思う。

最後の一言

本文中に博士課程のことに言及しており、最近みたビデオを思い出したのでここに載せておきます。 講義はDavid Cardさんによるもので、理論モデルベースの経済学とデザインベースの経済学を比較している内容です。 全体的に非常に面白いのですが、特にこの部分で、 博士課程一年目のカリキュラムの正当性について、かなり衝撃的な意見があったので興味ある方は是非見てみてください。

ありがとうございました。

渋谷

追記(2020年10月8日)

「お話」の重要性に関連した世界銀行からのブログが最近出ていたので共有します。開発経済且つインパクト評価という政策に直結した分野で少し特殊ですが、こんな「お話」の取り入れ方もあるのだなーと勉強になりました。

コメント

鈴木:

個人的に面白いと思ったのはImportanceとHardnessとのトレードオフ(論文のFigure 1)。 この図では「あるHardnessのもとでImportanceの上限は決まっていて、研究がよりハードになるほどその上限は減少していく」ものとして描かれているが、「本当にそんな上限あるのかな?」と思う。

例えばDell (2010)にある地理的な不連続性を所与として、「これを使ってどんな問いに答えるか」という問題があるとする。 これはある意味、「Hardnessを一定とした上で、どのImportanceを選ぶか」という問題と言える。 Dellが答えたのは「制度は長期にわたり社会・経済に影響を与えるか、またどのような経路で影響を与えるか」という問いで、これはImportanceの大きな問いだと個人的には思う(ここで問題になるのは渋谷さんも述べている「誰にとっての、あるいは何にとってのImportanceなのか」だが、特に私が念頭に置いているのは、成長論における「経済成長の源泉は何か」という重要な問いに示唆を与えるという意味での、経済学という分野にとってのImportance。もちろん、この問いは実務でも極めて重要だと思う。)。 しかし、同じ識別戦略をとって異なる問いに答えることも可能である。 例えば、現在の人種構成をアウトカムにした分析を行い「過去の制度が現在の人種構成に影響を与えるか」という問いを設定することはできるが、これはDellの問いに比べてImportanceが低いように個人的には思う(もちろん、この問いのほうが重要だと思う人もいるだろうが)。

何が言いたいかというと、「所与のHardnessのもとで唯一のImportanceが決まるわけではない」ということである。 Importanceの高い問いを設定したのはDellの能力であり、大きな貢献だ。 では、所与の識別戦略のもとでこれが最もImportanceの高い問いであったかというと、それはわからない。 結局、研究者の能力・想像力次第で研究のImportanceは高くも低くもなりうるし、そうであるなら「Importanceの上限」という概念もよくわからない。 ただ、「所与のHardnessのもとでよりImportanceの高い研究を目指す」、あるいは「所与のImportanceのもとでよりHardnessの高い研究を目指す」という姿勢は大事だとふんわり思った。

元橋:

「ハード」さを尊重する風潮は、経済学を研究する個人(少なくとも私)としては良い気がする。実証研究での因果関係の立証の仕方がある意味定型化されていて、目指すべきゴールが明確になっている中で、研究がとても進めやすい。そして、その研究がどのレベルのパブリケーションに載るのか、予測しやすい。その予測のしやすさから、キャリアについて計画が立てやすい気がする。ある意味ゲーム的にクリアしていけるような印象を受ける。

このように特に感じているのは、学部の頃にかじっていた法学や政治史の研究では、何が良い研究として評価されるのか、明確な基準がないように感じたためである(ただ私の理解が不十分だったかもしれない)。また、国や地域によっても評価基準がかなり異なりそうな分野であった。逆に経済学では特に実証研究ではどこまで目指せばよいのか、そして、現段階の研究ではどこが足りないのか、わかりやすい。そのわかりやすさが経済学の良いところかと思ってる。

しかし、個人の立場を超えて、経済学の学問全体としてどうしていくかという話になると、「ハード」さにこだわって、重要な問いを取りこぼすことがあるのは良くないと思う。「ソフト」な研究であっても重要な問いに答える必要があるだろう。「ソフト」な研究も大事であるという認識をもっと高める必要があるだろう。そのように「ソフト」だが重要な問いに答えていることを評価するジャーナルがあっても良いかもしれない。

ただ、私は経済学はかなり柔軟な学問で、色々と重要な問いに答える取り組みは現状でも十分あるとも思う。例えば、心理学との接点で行動科学、社会学との接点でネットワーク、コンピューターサイエンスとの接点で機械学習のアイディアを取り入れて、そのアイディアを「ハード」に検討することで、学問を発展させてきた。「ハード」さを軸として大事にしつつ、他分野の学問の知見と融合させつつ、経済学を前進させていくのは一つの道だろう。

中村:

元橋さんのコメントの二番煎じかもしれないけれど、”ハード”さを使って社会的に重要な問題を体系立てて説明した気になっている説明できるのは経済学の強みだと思う。なんらかの理論体系、かつハードな実証研究を掛け合わせるというスタンスは全体的には正しいと思う。また、明確で厳しい基準がある(個々の事例をとるとハードさと重要性のバランスがとれていない様に見受けることもある)ことは学問の長期的なインテグリティのために大事だと思う。論文のFigure 1に挙げられている点は面白いと思うけれど、いわゆる静的な見解であって、学問の流れにおける動的な視点に欠けていると思う。”経済学ってどこに行こうとしているの?”的な議題なのであれば動的な視点も大事なのでは。

ただ、Akerlofさんの指摘している(結果1)新しい研究アイディアに対する偏見はハードさ重視の弊害だと思うし、もう少し他の(よりもっと)ハードな学問(例えばコンピュータサイエンス)の様に思考の多様性を養う土壌があっても良いと思う。経済学は他の学問と比べて封建的だと思うし、いわゆるスターと呼ばれる学者の大半が既存のスター学者のお墨付きを受けて生まれる文化と多様性の問題は密接に関連していると思う。近年の経済学界の性差別、人種差別の問題との接点もあるのではと思う。

一方Akerlofさんの結果2:過剰な専門化に関しては経済学は逆に比較的良い状況に置かれているのでは。結果1やハードさへのフォーカスは、同じ理論系統や解析ツールを持った学者の集まりを作っていると思うし(みんな大体どこの経済学博士課程の1年目は同じ内容の授業)、そのおかげでサブフィールド間の移動は比較的簡単なのでは。博士課程1年目の授業辛いなーと思ってたけど、強いて言えば経済学者の共通言語を身に付けるという意味があったのでは。

文献:

Akerlof, George A. 2020. “Sins of Omission and the Practice of Economics.” Journal of Economic Literature, 58 (2): 405-18.

Card, D. and Krueger, A.B., 1993. Minimum wages and employment: A case study of the fast food industry in New Jersey and Pennsylvania (No. w4509). National Bureau of Economic Research.

Shapiro, C. and Stiglitz, J.E., 1984. Equilibrium unemployment as a worker discipline device. The American Economic Review, 74(3), pp.433-444.

Written on September 14, 2020